都市が通過する


少し前のことを思い出して、書き連ねてみる。
4月末から5月頭にかけ、東京に行ったこと。

1週間の東京暮らしは長い(わたしにとっては)。でも、限られた時間。
その中のある日、ほんの数時間に体験したことを書いてみよう。

行きたいカフェや、気になっているブティックなど、色々、いろいろあった。秋田にいる時は、「次東京に行ったら、寄りたい!」と思える場所があった。

でも、「ほんの数時間」前の私は、あちこち回る気分でもなく、展覧会を1つ見られれば満足だな、と。頭に描いた東京めぐりはどこへ行ったのか。
「そうだ」と、東京在住の友人が勧めてくれた展覧会へ。



行ったのはこちら。
企画展「写真都市展 −ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−」
写真、都市、をキーワードに設定した展示。
かつてゼミに入りたいと自分自身が望んでいた研究者が、展示監修を務めていたこと、今でも写真という表現技法が好きなこと。
数年ぶりに再会した友人が、この展示を勧めてくれたのも、私の興味関心、好みを覚えていたからのようだ。

一番ぐっと来たのは、最初に遭遇するTAKCOMの映像インスタレーション。展覧会全体に展示機材を貸出協力した、Canonのプロジェクタとスクリーンで、複数都市を越境するウィリアム・クラインの写真を繋ぎ合わせている。スナップフォト的なもので、アレ・ボケ・ブレが特徴的な被写体が映り込むスクリーン。多方向にスクリーンが配置されているため、なんというか、街のなかでぐるりと周りを見渡す感覚になる。遊歩?いや、そんなに軽やかなものじゃない、田舎者が騒がしい都会のまちに来て、場所の音やにおい、光に対して、注意力が散漫になるような。

東京に久しぶりに来たこともあり、自分が見たことのない時代、行ったことのない場所、スピード感を持って、通過していく。いち個人としての自分がその光景を見ているのではなく、自分は街の一部でしかなく、感情や感覚を発揮する余地もなく、全ては通り過ぎていく。眼前で流れる写真に圧倒され、そして、ふとした瞬間に虚無感を覚える。次の展示室へ続く暗幕をくぐる瞬間、なんか変な気持ちだった。
次の展示室は日本の若手の作品。総じてセンシティブな作品が並んでいた。自分が今生きる場所、街を見つめてやろうぜ!くらいの気概や切迫感がじわじわと溢れていた。エネルギッシュ。なんとなく、卒展の雰囲気を思い起こさせた。


別の展示室でやっていた
「Khadi インドの明日をつむぐ- Homage to Martand Singh -」展
も鑑賞。こんなコンセプトの展示を見ることも、今はなかなかないので。
実はこっちの展覧会の方が、先のものよりしっくり来た。ひとの肌に触れる、近い存在での「布」。インドの人道的教育の歴史についての映像や、テキストをじっと眺めた。少し透けるアイボリーの布地に走る繊維に、重みと厚みを感じる。
展示物に触れられるのも、嬉しかった。

ホワイトキューブ、ショーケース…時に煩わしい装置は無く、曇り空のあいだから僅かに光線が射す。赤と黄色を帯びた陽光が、何よりの照明だ。少し涙が出そう。



東京暮らし、展覧会に行ったのとは別の日に、4kmほど地上を歩いてみた。地下鉄がなんとなく苦手で、まだ気候も外歩きには不向きではなかったから。
夜になると、どこからかジャスミンの香りを風が運ぶ。ああ、と爽快感を覚えた。

そこで、初めて自分が都市に触れられた気がした。





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