2014年1月5日日曜日

Peter Granser 『Coney Island』





 コニーアイランドはアメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン地区の南端に位置する半島であり、同市有数の観光地として知られている。1920年代に出来た遊園地アストロランドは2008年の閉鎖までに多くの観光客が訪れ、閉鎖後も木製のジェットコースターと観覧車は同市の歴史的建造物として残されている。
 一見国内外からの観光客で賑わっているようだが、海岸沿いの壁面には誰が描いたのか、グラフィティとも言えないような落書きがなされ、かつての遊園地は無機質なフェンス越しに見ることが出来る。グランサーはこのどこか寂しさの漂う乾いた光景と、そこに集う観光客を至極冷静な眼でとらえている。アミューズメントパークらしき鮮やかな色彩も経年により色褪せ、観光地としてのコニーアイランドの変遷を感じさせる。子どもの時に憧れた夢の半島はかつての賑わいを、風景における色彩の中にたたえながら、観光地としての役割を今も果たし続けている。

ベルナール・フォコン写真集 飛ぶ紙




 ベルナール・フォコン(1950-)の写真作品と制作途中の風景を織り交ぜた写真集。南仏プロヴァンス地方のアプトに生まれたフォコンは、幼年時代を穏やかな田園に囲まれて過ごした。少年時代から青年時代にかけては絵画の制作に熱中していたが、ソルボンヌ大学において哲学専攻を修了するやいなや、写真の世界に飛び込んだ。

「ぼくは写真とマネキン人形を同時に発見した」

 この本はフォコンの初期作品から近作(1986年刊行当時)までを収録したものである。彼の作風の代表とも言えるマネキン人形を現実の風景に置くという、フィクションと現実を綯い交ぜにした作品を見ることが出来る。また制作風景を記録したモノクロームのスナップも掲載されている。マネキン人形がいる光景には、必ずある「仕掛け」がなされている。画面の向こうで火事が起こっていたり、現実の生身の少年が登場していたり……。 しかし1981年以降マネキン人形は姿を潜め、彼の故郷アプトを彷彿とさせるようなラベンダー畑やみかん畑などの自然風景、邸宅の室内風景がメインの被写体となっている。風景は正方形の枠組みで切り取られたピクチュアレスクなものである。しかしのどかな田園風景の中ではオレンジ色の炎が立ち揺らいでいたり、室内には無数の紙片が飛び交うなど、やはり一筋縄ではいかない写真が展開される。

「……それにしても、死がそこまで迫っているというのに、誰ひとり騒ぎたてようとしないのはなぜだろう。すでに死者の目で、『生』もしくは『生の記憶』を振り返っているせいだろうか。」

 安部公房によって寄せられた帯文。短い言葉でありながらも、フォコンの本質を突いているようである。現実の風景は「死んだ」マネキン人形のまなざしを借りたものである。現実では起こりえないような出来事が、鮮明なヴィジョンを持って提示されるその写真は、人間の原初的な「生の記憶」の集合体であるのかもしれない。

2014年1月4日土曜日

「現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス展」

 ひとやもの、場所――うつろいゆくものを記憶の中に保持するためにはどうしたらいいのだろうか。写真を撮るか、映像に残すか、あるいは筆を執るか。いずれの手段をとるにせよ、「記録」をしているその間にもうつろいゆくものたちは刻々と変化し、どの瞬間の断片にも微妙な変化があり時のあわいを感じさせる。
 現代のスペイン・リアリズムを代表する作家アントニオ・ロペス(1936-)は、風景画やポートレイトなどの油彩画、素描そして彫刻のファイン・アートの手法を用いて制作活動を続ける。しかし絵画と彫刻では選ばれるモチーフがやや異なる。彼が画題に選ぶのは家族、室内風景という身近なものから、高所からとらえたスペイン市街など具象的であるのに対し、彫刻では抽象化された人物像を制作している。一口に「リアリズム」と言えども、先に述べた絵画と彫刻の方向性の相違などを鑑みたとき、ロペスにおけるリアリズムは個人様式の中で多様性を見せる。この日記では彼の絵画におけるリアリズムについての考察を試みてみたい。
 ロペスを主役とした秀逸な映画作品に「マルメロの陽光」がある。当展覧会では同作の特別上映会が催された。同作は「エル・スール」や「ミツバチのささやき」など、穏やかな日常の静寂に叙情性を紡ぎ出すヴィクトル・エリセ監督の手がけたドキュメンタリーである。この映画はカンヴァスのうえで時のあわいに揺らぎ続けるマルメロという画題と、それにストイックなまでに向き合い続けるロペス、そして彼らによって刻まれた時間という大きな三要素によって構成されている。ある日ロペスは改築中の自宅にて、庭に50号ほどのカンヴァスを立てたわわに実ったマルメロを描き始める。春、夏、秋……季節はめぐり、しだいにマルメロも実を落とすようになる。しかしロペスはカンヴァスに、基準線として水平線、垂線を引き直しながらマルメロの木を描写し続ける。マルメロの実はやや緑がかった黄色から赤みがかった黄色へと変化し、同じ姿をとどめておくことは出来ない。ではロペスが描き続けるマルメロはいつの姿なのだろうか。映画を見ていると、対象とする事物の一時の有り様だけでなく、時間の流れがマルメロに刻む連続性とも言うべきものを彼は敏感に察知しているように思えた。時流に遡行するのではなくあくまでそれに寄り添い描き続けている。全てのものは連続性の中に存在する。その流れに逆らうことなく対象の本質を掬いあげていくことがロペスにとって、真実味をもった行為ではないか。
 表現が多様化する中で、リアリズムは過去におけるそれよりも漠然とした言葉であるかもしれない。むろん普遍的に様式を定義づける言葉などないから、依然として曖昧模糊とした言葉であることは自明であるように思う。しかし他者との比較においてではなく、ロペスという「個」における様式史において「リアリズム」という言葉は有効であり続けるのではないだろうか。

2022年1月17日 水彩の計算

去年の春から月1〜2回ペースで、絵画教室に通っている。最初は鉛筆デッサンで、慣れてきたら水彩に挑戦する日もしばしば。 水彩は高校生の頃に数回しかやったことがなく、この年になって本格的に挑戦している。油彩の方が描いている数は多いので、感覚が掴めなくて、最初の数回は苦しかった。高校の...