2015年4月13日月曜日
誰かが見てる エトセトラ飛ぶ
まだ薄暗く、外気はひやりとしている。
遠くから、次第に空が白み始める。
ついつい飲み過ぎて、始発に乗る朝。
終電間際に歩く雑踏で、周囲のノイズが一瞬聞こえなくなるとき。
今はそんなことも減ったけれども、確かな感覚は今も残っている。
でも、あの頃、あの時、私が感じていたものは、数年経った今も言葉にはできない。
熱を帯びた頬に当たる外気は、痛みを伴うような冷ややかなものではなかった。
かと言って、心地よさがあったわけでもない。
じゃあ何を感じていたの?
ただ其処には、置いてけぼりになった「自分」と対峙する瞬間があった。
「自分」は泣いてはいない。ただ立ち尽くし、ぼうっとどこかを見ている。
空っぽな心にはさぁさぁと風が流れているようだった。
あの時、感じていたものは、今はもう取り戻せないかもしれない。
時々、あの時に見えた「自分」を思い出すと、心がじゅんと音を立てる。
思い出す感覚は甘くもないし、辛くもない。
立ち尽くした「自分」は、今、何処にいるんだろうか。
2015年3月7日土曜日
記録しつづけること。
学生時代から様々な記録をつけている。日常のこと、読書、旅、芸術鑑賞。と、去年から登山と朝ランも仲間入り。数値化出来るものはデータとして残し、一定の纏まりが出来たものは文章に。そして写真も添えてみる。
このブログのような様々なSNSも活用しつつ、断続的ながら数年分の記録が溜まりつつある。自分の場合、最初からノートや手帳などの紙媒体には記録していない。まず携帯電話のメモ機能や、ネット上のサーバーに書き留めてから、しばらくして紙媒体に落とし込む。その繰り返し。頭の中のどこかでは、デジタルでの記録はメモ程度、と考えているのかも。それらで収集した断片が、紙上でより詳細に、「生々しく」文章化される。一度自分が放った呟きやぼやきに、じわじわと蘇る私的な感覚や感情が肉付けされ、「記録」と「記憶」が混在する一つのナラティブが形成されていく。
記録をつけることで、自分が最も本質的に大切にしているのは、「再来」する感覚である。ひとつの物事を記録として文章にしたためる時、記録を今ひとたび読み返す時。いくつものタイミングで、再来の風が自分に吹くのを感じる。その風を感じられる居心地のいい場所を作ること、それが今の自分にとっての「記録」の在り方である。
それにしても、自分の文章は感覚的かつポエティックだと感じる。これは誰の影響なのかな。
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