まなざしから落ちた、ひかり こぼれ落ちる、言葉
11年前、私は体調を崩したため休学して、でも東京から離れたくなかったから、結局学生寮と地元を行ったり来たりしていた。かと言って、復学後を見据えた準備をしていたわけではなく、ただただふらふらしていた。風来坊を気取っていたのかというほど、気分の赴くままに渋谷へ行き、私鉄に乗り換えて多摩川方面へ向かった。
いつも、フィルムカメラを持ち歩いていた。 minolta SR-T101という祖父が使っていた大衆機。 かのユージン・スミスは日本滞在中にライカのカメラが盗難にあい、このminolta SR-T101を代用したという。
足が気怠くなった頃に家に帰ると、自分と同世代のひとが撮る写真も、ブログやflickr、カメピというSNSで眺めていた。さらさらと流し見することが多かった。
ある日流し見できないブログに出会った。
植本 from アルテミスイチコ
愛おしさなのか、もどかしさなのか、被写体と作家の間の少し熱めの温度感が伝わってくるような。とても不思議な感覚だった。
写真から若者の言葉が聞こえているような気がした。でも背景の雑踏の音は消えている。
そう、言葉。音。
気づいたら私は彼女のブログを毎日チェックするようになっていた。
それが10年ほど前の話。
数年前にこの写真家、植本一子さんが本を上梓したことを知った。その本は私に大きなかたまりをぶつけた。
どきどきした。
彼女の書く言葉。
ああ、この言葉たちがあの写真たちの背景にあるのか。人とあたためあった温度感をそのまま写真に残したんだと。
写真に言葉が重なり合い、自分のなかで納得した、腑に落ちたような気持ちになった。
彼女の写真と言葉が交わりあったという自分の経験は、ひとつの邂逅かもしれない。
今はもうない、白いパソコンのディスプレイをじっと睨んだ10年前の自分。
くすぶっていたあの頃の自分に、「いい出逢いがあったんだよ」と言ってあげたい。
そう思うと、今の自分も報われる。
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