初期衝動とzineと自分
一昨年からzineを作っています。不定期。不定形。ゆる〜っと。
私が載せる内容は主に詩と写真。今日はこの2年で制作した、 2冊を紹介してみます。
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『言葉に花、羊に羽』
A5, 12頁, 2016年9月制作
音を作っている 高坂翔 さんと作りました。キャッチボールのように、音と言葉をやり取りし、本という形に落とし込んだものです。
本を作ったのは、2人のキャッチボールを残したかったからだと思います。この本は「第1回文学フリマ」にて販売しました。具体的に目標を定めることで、初期衝動を維持したいという思いが強かったんだな…と回顧しています。
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『光さす、手元に』
A6, 8頁, 2017年4月制作
こちらは販売はしていません。自分のためだけに、作りました。
アーティスト・イン・レジデンスで大館市に来ていた女性 Thelma Vilas Boas さんの制作補助をした経験を、本にまとめました。
制作補助は辛い記憶ばかりです。無論それはThemaのせいではなく、自分のコミュニケーション能力の低さが、制作を妨げているような恐怖感を常に抱いていました。しばらくは己の不甲斐なさを呪ったりしていましたが、彼女と見た風景、拙いながらも交わした言葉がじわじわと自分の中で大きい存在になっているのを感じ始めました。
「そうだ、本にしよう」
初期衝動は仕事からの帰り道(良くないけど、運転中)に芽生えました。
作った本、ほんとうはThelmaに送りたいのですが、未だに送れていません。本に英訳をつけなきゃー、とか送るにあたっての準備がなかなか進まないのと、自分に自信がないゆえためらってしまうこと、というのが大きな理由だと思います。
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先日、zineを作ろうというWSにて、恐れ多くも講師を務めた際に
「私にとって、zineは初期衝動を形にしたものです。」 という話をしました。
正直、私は絵も写真も文学も、「表現者」というには程遠い人だと思っています。でも、形にしたい!ものを作りたい!という欲望は常に渦巻いていて、えいやっ!と勢いに任せて行動に移すことが多いです。見切り発進ではありますが、今振り返ると勢いで出来たものは驚くほど、「自分じゃない」作り手が見えたりします。それでもやっぱり、「自分」という未熟さのかたまりが露呈すると、過去の私を引っ叩きたくなるくらい後悔の念に襲われますが。
かつてのことを思い出しました。
「どの自分が、ほんとうの自分かわかりません。」
と診察室で泣き言をぶつけた時、医師はこう言いました。
「どの自分も、ほんとうの自分なんですよ」
医師は困惑した顔のようにも見えたし、諦めたような顔にも見えました。
zineを作っている時は、気持ちが湧き上がって、イメージが溢れているのを感じます。
気持ちが昂ぶる中、あまたの自分が紙の上に交叉していくように思える時。
そういう時を「我に返った」という言葉で表現するのは不適切なのでしょうか。
「どの自分も、ほんとうの自分なんですよ」
医師は困惑した顔のようにも見えたし、諦めたような顔にも見えました。
zineを作っている時は、気持ちが湧き上がって、イメージが溢れているのを感じます。
気持ちが昂ぶる中、あまたの自分が紙の上に交叉していくように思える時。
そういう時を「我に返った」という言葉で表現するのは不適切なのでしょうか。
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