2014年11月4日火曜日

読書徒然日記 その2



 塾で国語を教えていた時に、退官した元教授がかつての教え子に昔旅した欧州の風景をスライドで見せるのだけど、特に会話もしなかった、という一節をテキストで読んだことがある。あれはなんという小説だったのだろう。

  その小説の叙述が、スライドで映される風景よりもスライドを写しかえる「カシャ」という音の描写中心で、ほどよい闇の中で機械的な音を鳴らしながら風景が廻る様子が目に浮かんだ。 記憶違いかと思って、池澤夏樹の『スティル・ライフ』のページをめくったけれども、やはり違う小説のようだ。 

  塾では画一的で一辺倒な教え方しか出来なかった。中学国語では「情景描写」なるものに重きが置かれていて、「筆者はこの文章で何が伝えたかったのか」を生徒は四択で解答する。なんだか歯痒かった。決まりきった読み方を機械的に選択するのではなく、自分なりの言葉で書いてほしかった。その文章を読んで心に波紋のように広がる風景を。

  それにしても、ワークに採用されたテキストは心惹かれるものが多く、タイトルや作者こそ忘れたものの、今もたまに切り取られた一節をふと思い出すことがある。名前を思い出せない小説たちは、私の中で宙ぶらりんのまま、断片だけが微かな光をたたえる。

2014年10月19日日曜日

山に登ること、とは。




    夏頃から登山を始めた。といっても月に1回ペース。きっかけは職場の人に誘われたこと。
登り始めて暫くすると、ごくシンプルな気持ちになる。休むことなく歩みを進めること、呼吸をコントロールすること、目の前に見えるものを瞬時に見極めること。なんというか、他ならぬ自分の身体と向き合うことを否応なく意識せざるを得ない状況がそこにあるのだ。
途中や頂上で見える景色や自然の景観を味わって爽快感や解放感を得ることは、確かに登山の醍醐味ではある。しかし自分が数回の登山を経て得られたのは、身体感覚への回帰、とでもいうような原初的な体験である。登山後、その感覚や体験を忘れたくなくて、登山日記も記録し始めた。
なんだか、年々アウトドア志向に…。

2014年10月5日日曜日

根子フェス

 あれから2週間。数時間の中で遭遇した幾つものシーンが、閃光のようにフラッシュバックする。トンネルは真っ直ぐな一本道なのに、出口のない道を遊歩するかのようだった。寒さで感覚が鈍ってきたのか研ぎ澄まされたのか。音が速さをもって身体中を駆け巡る。鉛色の音叉になったかのように、音に身体が反応し、震えるような感覚。  600mの旅の終着点。七尾旅人が目の前にいた。耳をつんざくようなノイズ、優しく囁きかける声。アスファルトの灰色と、ライトのオレンジ色の二色の中に、ぽとん、と落とされた絵具のように、音は波紋のように広がった。ひとつの頂あるいは極致が、確かにあの場所にはあった。私たちはそこに連れていってもらったんだと思う。

2014年2月18日火曜日

フラッシュバックメモリーズ 覚え書き


 10日ほど前に携帯を紛失。ネットショップを通じて購入はしたものの、まだ手元にない。携帯を見なくなってから以前よりも読書やDVD鑑賞に時間を割くようになった。今日は去年の春に劇場で観た「フラッシュバックメモリーズ」を。


この映画は3D公開されていた(今も時々イベント時に上映している)。無論、DVDでは2Dだが、あの映画を観た時に強く惹かれた多層的な表現は色濃く刻まれている。過去の映像、写真、事故後の日記(本人、家族)。映画中に流れるそれら全ては過去であり、全てをGOMAが覚えているわけではない。観客である私たちは過去を今に現前化させる映像を受け止める。

 本編中に「会話は過去の記憶で成り立っている」という主旨のGOMAの言葉にはっとさせられる。瞬発的に言葉を発しているけれども、私たちは会話の内容に合わせて過去に得た対話するためのノウハウや記憶を再構築し、それで会話は成り立っている。記憶はシステム化されて日常の生活を無意識のうちに支えている。システムという表現だとやや堅苦しいかもしれないが、この映画が表現するレイヤーのゆるやかな繋がりが日々の営みの背景に存在することを再認識した。

 2Dを観たことで、3D上映にもう一度足を運びたくなった。

※こんなイベントもあり。
☞「フラッシュバックメモリーズ4D」http://natalie.mu/music/news/95867

 あわよくば4Dも機会があれば鑑賞したいのだが…。

2014年2月13日木曜日

読書徒然日記 その1


 
  4日前に携帯を無くした。でも私はまだ携帯電話を買っていない。さして不便さを(今のところ)感じていないのと、また元の携帯が戻ってくるんではないかと淡い期待を抱き、購入を躊躇している。まぁ、そうこうしている内に結局はその内買うだろうけれども。(友人知人は「早く買え」と言うので。)
 仕事の休憩時間、帰宅後の自由に使える時間はほぼ読書時間に充てている。PC経由からの連絡も殆どないし、なにより携帯電話の液晶画面を見つめる時間は強制的に削減された。帰宅すると本を読み、読了したらまた書棚の前に立つ。この4日間はその繰り返し。読みたい本をランダムに選び、リストを作って読みたい順に並び替える。積読していた所在無さげな本たちを掬いあげていくような感覚。

*とりあえずこの4日間の記録
◎『キミトピア』舞城王太郎
◎『台湾 韓国 香港』藤原新也(再読)
◎『伊藤計劃映画時評集 1』伊藤計劃(読書中)

 携帯電話が手に入ってからも、せっかく取り戻した「読書癖」なるものは継続して保っていきたいなぁ。SNSアプリでのやり取りよりも活字との対話が楽しい毎日。これは、これで良し。

(写真:十和田奥入瀬芸術祭2013の水産保養所にて)

2014年1月5日日曜日

Peter Granser 『Coney Island』





 コニーアイランドはアメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン地区の南端に位置する半島であり、同市有数の観光地として知られている。1920年代に出来た遊園地アストロランドは2008年の閉鎖までに多くの観光客が訪れ、閉鎖後も木製のジェットコースターと観覧車は同市の歴史的建造物として残されている。
 一見国内外からの観光客で賑わっているようだが、海岸沿いの壁面には誰が描いたのか、グラフィティとも言えないような落書きがなされ、かつての遊園地は無機質なフェンス越しに見ることが出来る。グランサーはこのどこか寂しさの漂う乾いた光景と、そこに集う観光客を至極冷静な眼でとらえている。アミューズメントパークらしき鮮やかな色彩も経年により色褪せ、観光地としてのコニーアイランドの変遷を感じさせる。子どもの時に憧れた夢の半島はかつての賑わいを、風景における色彩の中にたたえながら、観光地としての役割を今も果たし続けている。

ベルナール・フォコン写真集 飛ぶ紙




 ベルナール・フォコン(1950-)の写真作品と制作途中の風景を織り交ぜた写真集。南仏プロヴァンス地方のアプトに生まれたフォコンは、幼年時代を穏やかな田園に囲まれて過ごした。少年時代から青年時代にかけては絵画の制作に熱中していたが、ソルボンヌ大学において哲学専攻を修了するやいなや、写真の世界に飛び込んだ。

「ぼくは写真とマネキン人形を同時に発見した」

 この本はフォコンの初期作品から近作(1986年刊行当時)までを収録したものである。彼の作風の代表とも言えるマネキン人形を現実の風景に置くという、フィクションと現実を綯い交ぜにした作品を見ることが出来る。また制作風景を記録したモノクロームのスナップも掲載されている。マネキン人形がいる光景には、必ずある「仕掛け」がなされている。画面の向こうで火事が起こっていたり、現実の生身の少年が登場していたり……。 しかし1981年以降マネキン人形は姿を潜め、彼の故郷アプトを彷彿とさせるようなラベンダー畑やみかん畑などの自然風景、邸宅の室内風景がメインの被写体となっている。風景は正方形の枠組みで切り取られたピクチュアレスクなものである。しかしのどかな田園風景の中ではオレンジ色の炎が立ち揺らいでいたり、室内には無数の紙片が飛び交うなど、やはり一筋縄ではいかない写真が展開される。

「……それにしても、死がそこまで迫っているというのに、誰ひとり騒ぎたてようとしないのはなぜだろう。すでに死者の目で、『生』もしくは『生の記憶』を振り返っているせいだろうか。」

 安部公房によって寄せられた帯文。短い言葉でありながらも、フォコンの本質を突いているようである。現実の風景は「死んだ」マネキン人形のまなざしを借りたものである。現実では起こりえないような出来事が、鮮明なヴィジョンを持って提示されるその写真は、人間の原初的な「生の記憶」の集合体であるのかもしれない。

2014年1月4日土曜日

「現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス展」

 ひとやもの、場所――うつろいゆくものを記憶の中に保持するためにはどうしたらいいのだろうか。写真を撮るか、映像に残すか、あるいは筆を執るか。いずれの手段をとるにせよ、「記録」をしているその間にもうつろいゆくものたちは刻々と変化し、どの瞬間の断片にも微妙な変化があり時のあわいを感じさせる。
 現代のスペイン・リアリズムを代表する作家アントニオ・ロペス(1936-)は、風景画やポートレイトなどの油彩画、素描そして彫刻のファイン・アートの手法を用いて制作活動を続ける。しかし絵画と彫刻では選ばれるモチーフがやや異なる。彼が画題に選ぶのは家族、室内風景という身近なものから、高所からとらえたスペイン市街など具象的であるのに対し、彫刻では抽象化された人物像を制作している。一口に「リアリズム」と言えども、先に述べた絵画と彫刻の方向性の相違などを鑑みたとき、ロペスにおけるリアリズムは個人様式の中で多様性を見せる。この日記では彼の絵画におけるリアリズムについての考察を試みてみたい。
 ロペスを主役とした秀逸な映画作品に「マルメロの陽光」がある。当展覧会では同作の特別上映会が催された。同作は「エル・スール」や「ミツバチのささやき」など、穏やかな日常の静寂に叙情性を紡ぎ出すヴィクトル・エリセ監督の手がけたドキュメンタリーである。この映画はカンヴァスのうえで時のあわいに揺らぎ続けるマルメロという画題と、それにストイックなまでに向き合い続けるロペス、そして彼らによって刻まれた時間という大きな三要素によって構成されている。ある日ロペスは改築中の自宅にて、庭に50号ほどのカンヴァスを立てたわわに実ったマルメロを描き始める。春、夏、秋……季節はめぐり、しだいにマルメロも実を落とすようになる。しかしロペスはカンヴァスに、基準線として水平線、垂線を引き直しながらマルメロの木を描写し続ける。マルメロの実はやや緑がかった黄色から赤みがかった黄色へと変化し、同じ姿をとどめておくことは出来ない。ではロペスが描き続けるマルメロはいつの姿なのだろうか。映画を見ていると、対象とする事物の一時の有り様だけでなく、時間の流れがマルメロに刻む連続性とも言うべきものを彼は敏感に察知しているように思えた。時流に遡行するのではなくあくまでそれに寄り添い描き続けている。全てのものは連続性の中に存在する。その流れに逆らうことなく対象の本質を掬いあげていくことがロペスにとって、真実味をもった行為ではないか。
 表現が多様化する中で、リアリズムは過去におけるそれよりも漠然とした言葉であるかもしれない。むろん普遍的に様式を定義づける言葉などないから、依然として曖昧模糊とした言葉であることは自明であるように思う。しかし他者との比較においてではなく、ロペスという「個」における様式史において「リアリズム」という言葉は有効であり続けるのではないだろうか。

2022年1月17日 水彩の計算

去年の春から月1〜2回ペースで、絵画教室に通っている。最初は鉛筆デッサンで、慣れてきたら水彩に挑戦する日もしばしば。 水彩は高校生の頃に数回しかやったことがなく、この年になって本格的に挑戦している。油彩の方が描いている数は多いので、感覚が掴めなくて、最初の数回は苦しかった。高校の...