2018年12月31日月曜日

かたつむりの原風景




大晦に、今年を振り返って。
iTunesのプレイリスト機能は便利。にしても、1年の終わりにプレイリストを作るのはもしかして初めて?これまでは「お題」的なものを設定して、それからイメージされる曲(もしくはそれをイメージする曲)をプレイリストにまとめたことが度々あったのだけど。

こういう作業を始めたのは、新春に聴いた「小山田圭吾の中目黒ラジオ」がきっかけだった気がする。フリッパーズギターもCorneliusも詳しくないけれど、NHKの膨大なアーカイブを活用してこの番組を作るのだと知り、ああ羨ましいとわくわくした。

1. RIVER(Acourstic) / FOLKLORE
2. 私の家は山の向こう(我的家在山的那一辺) / テレサ・テン
3. 20180403 fujisatorec / shou kousaka
4. おとしもの / Popoyans
5. Aqua / 坂本龍一
6. Sunny Day in Saginomiya(Edit) / 蓮沼執太
7. The Electrionic Flute / Henry Tennis
8. TIME / 蓮沼フィル
9. Uta / Pipilotti Rist
10. Hold Them / Mohna
11. 風見鶏 / グッドラックヘイワ
12. 少年 / 大友良英
13. Some Things Last a Long Time / Daniel Johnston
14. 祝いのうた / 森ゆに

2018年は新しくCDを買うよりも、中学生の頃に遡り手持ちの音楽を聴いた。1. と8. 、14. だけ2018年に新しく買ったもの、もらったもの。

2月に岩手銀行赤レンガ館でFOLKLOREのライブがおこなわれた時、ゲストヴォーカルの坂本美雨さんが「Aquascape」という曲を歌った。デビューする娘のために、父親である坂本龍一さんが贈ったという。どこかで聴いたことがあるなと思ったら、5.の曲に歌がついたものじゃやないか。坂本龍一さんの「BTTB」というアルバムの中で自分が一番好きで、中学校の文化祭で流した記憶がある。
それを思い出した瞬間、どわっと涙が出てきた。
懐かしく心に響く5. の「Aqua」もプレイリストに入れてみる。

このFOLKLOREのライブの話をもう少し書こう。
「盛岡」という生まれ故郷は3つの川が交叉する場所、とMCで青木隼人と坂本美雨さんが話していた。自分の原風景は川、と思ってきた自分にとって、それは嬉しいことだった。
流れる川がまちに描線や筆触を残し、生まれた風景。そこにくるまれて私は生まれ育ったと、進学で故郷を離れて以来そう思ってきた自分の想いが、音楽に重なったような気がした。

ところで「大晦(おおつごもり)」って、「かたつむり」を想起させる…。
語感が似ているのと、ブランケットかぶって丸まってる今の自分の姿がそのゆえんなのでしょうか。

話の腰を折ったところで…ああ、気づけば新年まであと14時間半。
かたつむりみたいな私は今、新しい年のために14. 「祝いのうた」を聴いている。






2018年12月19日水曜日

歓び迎え入れること

マリンバソロでのライブなんて初めてだなぁ。


なんて思いながら、隣り合う鹿角市の「道の駅おおゆ」で開催された演奏会に足を運んだライブ。しかし冬の北国はひとの行動に制約を課す。往路が風雪により、悪路と言っても差し支えないほど荒れていた。止むを得ず二部からの入場。

二部で聴いたなかでは、聴覚を失ったマリンバ奏者Evelyn Elizabeth Ann Glennieの手による“Light in Darkness”が印象的だった。暗闇のなか、炎みたいに揺らめく光。溢れ落ちるようなマリンバの音を聴いていると、そんな景色が目に浮かんだ。聴覚と反比例して、過敏になった視覚が光のかたちを見つけたのかなと、異国の女性奏者に思いを馳せてみる。


ライブで一番印象的だったのは、主催の女性Hさんのはにかみ、でもきらきらした表情。先日職場に取材に来た、学校の新聞部に所属する10代の高校生のようだった。Hさんと学生の表情の違いは、ためらいがなく、真っ直ぐ前を、次を見据えていること。


Hさんとは自身が営むカフェで、イベント企画について話したことがあった。

マリンバ奏者の方がここで演奏してくださったんですよ。またやりたいと思っているので、機会があればぜひ来て下さいね。

半年後ようやく、それが叶った。場所はカフェではなく、まちが新たに迎え入れた大きな会場で。


歓待という言葉がある。
演奏会場を提供した男性は、聴衆にこう語った。
「この場所が喜んでいる」

ああ、そうだよな。
演奏のなか、空間がぴりぴりと震えていた。
この場所は音を待っていたのかもしれない。
このまちは場所に新しい可能性を吹き込むHさんを待っていたのかもしれない。

歓び、迎え入れる。

Hさんの姿勢や言動にも、それを感じたことが多いな、とふと思う。

ひととひと、ひとと音、ひとと場所、ひととまち……
交わり合うことの歓びに気づかされた夜だった。
いつか見た雪。秋田県鹿角市と岩手県八幡平市の境目あたりで。

2018年12月18日火曜日

土地の階調

雪が積もって、融けて、を繰り返す今時期。凛とした色の紅い実が、白とコントラストを成す。ついついiPhoneのカメラを向けてしまう。



この街に来るまで、色彩の対比なんてあまり意識しなかった。生まれ故郷はそれなりに都会で、ビルやらネオン、なんやらの色が混在していて、夜も3キロ先のデパートのネオンサインが窓から見える。目の前に広がるのはマルチカラーって感じだった。

今住んでいる家が面するのは、近くに田畑、遠くに山。限られたトーンの色。そこに色の階調を見いだすのが、暮らしの喜びだったりもする。故郷のマルチカラーは日常の景色だったから、今この土地にいて寂しい気持ちにもなることもあるけど。

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そういえば身体に変化があったのか、お酒にめっぽう弱くなり、代わりに?甘いものを好むようになった。ここ最近の自作ヒットはバナナシナモントースト。シナモンの香りが好きだ。なんでか懐かしい気持ちになる。家族みんなで出かけたディズニーランドで食べるお菓子を思い出す。


2018年12月11日火曜日

つづく私の場合の「わたし、ここで」



「わたし、ここで」
冬から春になって、どんどん季節は変わって。
大館にきて4度目の冬になった。

思い立って「watashi_kokode」というユーザー名で、私の場合の「わたし、ここで」をInstagramに綴ることにした。
あのムービーの続き、というほどストーリー性はないけれど、映画じゃなくても毎日は続くので、その意味で「つづく」ことを綴ろうと思う。

最新の投稿では、大館に来てから出来た数少ない友人に贈った出産祝いのことを書いた。
大館の3年目は怒涛の日々。
友人には子どもが生まれ、自分の生活もある面では区切りを迎え、慕っていたひとが亡くなり、実家で大切な家族が病に倒れ…など、生きるとか死ぬとか、この地で経験するのが初めてだった喜びや痛みが心にぶつかって来た。

その中で、友人に子どもが誕生したのは本当に嬉しいことで。
子どもも、あたらしい表情のお父さんもお母さんも、愛おしく感じられる。

これからつづく日々はどんな色なんだろう。
色々な変化が続いて、正直わくわくするような心持ちではないけれども、すべてのどんな展開を受けとめようという覚悟が育ちつつあることを実感している。

2018年8月6日月曜日

集めて、編んで。

ライティング、エディティングについての覚書
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「言い得て妙」ではないけれど、ヒアリング中に至言とも呼ぶべき言葉を拾う瞬間というのがあって。その時の私は、文脈をつなぐ鍵をキャッチしたな〜という気持ち。
録音データを持ち帰って、文字起こしする瞬間もまた、至福のひと時です。

軸、要をつかんで、集めて、言葉を編む作業で、方向性を見出す歓び。

言葉に、花

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ライティング、エディティングの経験はまだまだ浅いですが、聞き手であるからこそ感じ得るこの歓びを持ち続けたいという思いでいます。

2018年7月14日土曜日

都市が通過する


少し前のことを思い出して、書き連ねてみる。
4月末から5月頭にかけ、東京に行ったこと。

1週間の東京暮らしは長い(わたしにとっては)。でも、限られた時間。
その中のある日、ほんの数時間に体験したことを書いてみよう。

行きたいカフェや、気になっているブティックなど、色々、いろいろあった。秋田にいる時は、「次東京に行ったら、寄りたい!」と思える場所があった。

でも、「ほんの数時間」前の私は、あちこち回る気分でもなく、展覧会を1つ見られれば満足だな、と。頭に描いた東京めぐりはどこへ行ったのか。
「そうだ」と、東京在住の友人が勧めてくれた展覧会へ。



行ったのはこちら。
企画展「写真都市展 −ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−」
写真、都市、をキーワードに設定した展示。
かつてゼミに入りたいと自分自身が望んでいた研究者が、展示監修を務めていたこと、今でも写真という表現技法が好きなこと。
数年ぶりに再会した友人が、この展示を勧めてくれたのも、私の興味関心、好みを覚えていたからのようだ。

一番ぐっと来たのは、最初に遭遇するTAKCOMの映像インスタレーション。展覧会全体に展示機材を貸出協力した、Canonのプロジェクタとスクリーンで、複数都市を越境するウィリアム・クラインの写真を繋ぎ合わせている。スナップフォト的なもので、アレ・ボケ・ブレが特徴的な被写体が映り込むスクリーン。多方向にスクリーンが配置されているため、なんというか、街のなかでぐるりと周りを見渡す感覚になる。遊歩?いや、そんなに軽やかなものじゃない、田舎者が騒がしい都会のまちに来て、場所の音やにおい、光に対して、注意力が散漫になるような。

東京に久しぶりに来たこともあり、自分が見たことのない時代、行ったことのない場所、スピード感を持って、通過していく。いち個人としての自分がその光景を見ているのではなく、自分は街の一部でしかなく、感情や感覚を発揮する余地もなく、全ては通り過ぎていく。眼前で流れる写真に圧倒され、そして、ふとした瞬間に虚無感を覚える。次の展示室へ続く暗幕をくぐる瞬間、なんか変な気持ちだった。
次の展示室は日本の若手の作品。総じてセンシティブな作品が並んでいた。自分が今生きる場所、街を見つめてやろうぜ!くらいの気概や切迫感がじわじわと溢れていた。エネルギッシュ。なんとなく、卒展の雰囲気を思い起こさせた。


別の展示室でやっていた
「Khadi インドの明日をつむぐ- Homage to Martand Singh -」展
も鑑賞。こんなコンセプトの展示を見ることも、今はなかなかないので。
実はこっちの展覧会の方が、先のものよりしっくり来た。ひとの肌に触れる、近い存在での「布」。インドの人道的教育の歴史についての映像や、テキストをじっと眺めた。少し透けるアイボリーの布地に走る繊維に、重みと厚みを感じる。
展示物に触れられるのも、嬉しかった。

ホワイトキューブ、ショーケース…時に煩わしい装置は無く、曇り空のあいだから僅かに光線が射す。赤と黄色を帯びた陽光が、何よりの照明だ。少し涙が出そう。



東京暮らし、展覧会に行ったのとは別の日に、4kmほど地上を歩いてみた。地下鉄がなんとなく苦手で、まだ気候も外歩きには不向きではなかったから。
夜になると、どこからかジャスミンの香りを風が運ぶ。ああ、と爽快感を覚えた。

そこで、初めて自分が都市に触れられた気がした。





2018年1月27日土曜日

初期衝動とzineと自分

一昨年からzineを作っています。不定期。不定形。ゆる〜っと。
私が載せる内容は主に詩と写真。

今日はこの2年で制作した、 2冊を紹介してみます。
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『言葉に花、羊に羽』

A5, 12頁, 2016年9月制作


音を作っている 高坂翔 さんと作りました。キャッチボールのように、音と言葉をやり取りし、本という形に落とし込んだものです。
本を作ったのは、2人のキャッチボールを残したかったからだと思います。この本は「第1回文学フリマ」にて販売しました。具体的に目標を定めることで、初期衝動を維持したいという思いが強かったんだな…と回顧しています。
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『光さす、手元に』
A6, 8頁, 2017年4月制作
こちらは販売はしていません。自分のためだけに、作りました。

アーティスト・イン・レジデンスで大館市に来ていた女性 Thelma Vilas Boas さんの制作補助をした経験を、本にまとめました。
制作補助は辛い記憶ばかりです。無論それはThemaのせいではなく、自分のコミュニケーション能力の低さが、制作を妨げているような恐怖感を常に抱いていました。しばらくは己の不甲斐なさを呪ったりしていましたが、彼女と見た風景、拙いながらも交わした言葉がじわじわと自分の中で大きい存在になっているのを感じ始めました。
「そうだ、本にしよう」
初期衝動は仕事からの帰り道(良くないけど、運転中)に芽生えました。
作った本、ほんとうはThelmaに送りたいのですが、未だに送れていません。本に英訳をつけなきゃー、とか送るにあたっての準備がなかなか進まないのと、自分に自信がないゆえためらってしまうこと、というのが大きな理由だと思います。
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先日、zineを作ろうというWSにて、恐れ多くも講師を務めた際に
「私にとって、zineは初期衝動を形にしたものです。」 という話をしました。
正直、私は絵も写真も文学も、「表現者」というには程遠い人だと思っています。でも、形にしたい!ものを作りたい!という欲望は常に渦巻いていて、えいやっ!と勢いに任せて行動に移すことが多いです。見切り発進ではありますが、今振り返ると勢いで出来たものは驚くほど、「自分じゃない」作り手が見えたりします。それでもやっぱり、「自分」という未熟さのかたまりが露呈すると、過去の私を引っ叩きたくなるくらい後悔の念に襲われますが。

かつてのことを思い出しました。
「どの自分が、ほんとうの自分かわかりません。」
と診察室で泣き言をぶつけた時、医師はこう言いました。
「どの自分も、ほんとうの自分なんですよ」
医師は困惑した顔のようにも見えたし、諦めたような顔にも見えました。

zineを作っている時は、気持ちが湧き上がって、イメージが溢れているのを感じます。
気持ちが昂ぶる中、あまたの自分が紙の上に交叉していくように思える時。
そういう時を「我に返った」という言葉で表現するのは不適切なのでしょうか。

2022年1月17日 水彩の計算

去年の春から月1〜2回ペースで、絵画教室に通っている。最初は鉛筆デッサンで、慣れてきたら水彩に挑戦する日もしばしば。 水彩は高校生の頃に数回しかやったことがなく、この年になって本格的に挑戦している。油彩の方が描いている数は多いので、感覚が掴めなくて、最初の数回は苦しかった。高校の...