2019年12月30日月曜日

今年も今年とて

恒例(にしたい)年末の「今年のプレイリスト」。
2019年も作りました。



1.うれしい予感/大滝詠一
2.Night And Day/Sondre Lerche
3.口ずさめる様に/神聖かまってちゃん
4.Poor Boy Long Ways From Home/John Fahey
5.You Can Fly! You Can Fly! You Can Fly!/ホフディラン
6.NUM-AMI-DABUTZ/NUMBER GIRL
7.エノラ・ゲイ/キセル
8.関白宣言/二階堂和美
9.New Song/王舟
10.Heaven's Gate Lying Aside Our Home Contry/Gustave Coquiot
11.Storytelling/World's End Girlfriend

Spotifyを使っていないので、相変わらずappleのミュージック機能で。

2019年8月21日水曜日

「     」

記憶が抜け落ちて、出来た空白。
私たちの知らない人、場所、時間。
知り得ないもの、触れ得ないものの表情。


なぜか私たちは空白に充たされた古写真を愛おしく感じた。
そして、一冊の本を作った。


今思うと、この本にタイトルはつけようがなかったのかもしれない。

あれやこれやと、私は自分の印象や感覚を言葉に置き換えようものの、知らないひとたちは笑顔でそれを拒む。

一緒に本を作った彼がつけたタイトル“「     」”が最適なものであったと、今あらためて実感している。


彼ともまた、空白の時間があった。
その間に彼は結婚していた。私は当時の恋人と別れていた。

今、彼に会っても、空白はきっと埋められない。


私たちが会ったとして、交わし合う会話がある。

ともに過ごした時間を思い出そうとする。
でも、各々がもつ視点が、過去を否定するように記憶を書き換えるかもしれない。


俎上に乗らずに置いていかれた過去、記憶は、空白になっていく。
自分が感じていたものでさえも。



あの本は、要らぬ想像を拒む過去と、過去を書き換えようと試みる無作法な私たちのための一冊。

こんなふざけた筆名を2人で即決するなど…

2019年6月12日水曜日

喜からの怒哀楽

なん年ぶりかにライブハウスに。
アーティスト名はここには書かないけれど、その名前はなんか語感がいいんです。

普段は流し聞きしたりして、歌詞を細かく意識してなかったけど、生歌は詞が耳に響いてくる。
身体を揺らしていると、ああ気持ちいいなぁ。
音楽聴くの好きだなぁって思う。

ライブの最後を飾る、彼らが歌う「LOUE」は心地よさにひたる自分を別の場所に放り込んだ気がした。
放心。


結婚して
子供を産んで
すてきな家庭を持つ

そんな幸せ


ってなんだろう?

早くした方がいいそれは女にとっての幸せだ結婚したいんでしょう?

幾度となく言われた言葉を思い出した。

歌う彼らのバックグラウンドを思うと、自分の過去を振り返ることは、安易な共感だよって人は言うのかもしれない。

でもね、そんな共感を許して欲しい日もあるんだよ。

感傷とともに音楽に身を委ねた日の思い出。
半年以上経ったけど、ここに書き残しておこう。





2019年5月14日火曜日

暮らしの仕方 2

「そろそろ終い方を考えなきゃね」

「終う」
という言葉が母の口から出て、驚きと悲しさがあった。

この人も終活考えているんだな(いや全く考えてないとは思ってなかったけど、私の前で言葉にするのは初めてだったから)
という驚き。

そんなこと言わないでほしい
という悲しさ。

母が見つめる終わりを想像したくない、なんて幼いことは言えずに、自分なりに終い方を手伝おうと思い始めた。




服やら本やら衝動買いしてしまう私を窘めた、いつかの母の言葉。
「お母さんの悪いところが似てしまったのね」

本当にそうかも…。
と思うくらい、片付け中はたくさんのものが食器棚や納戸からざくざく出てきた。

でも彼女の心をときめかせたものばかり。

好みが似ているのか、ああこれなら私も買うよなぁ〜なんて思うものがたくさん。

勧められたものは殆ど譲り受けた。




しばらく食器も調理器具も買わなくていいだろう!
というくらいに。

食器も調理器具も嗜好品。
帰省から戻って荷解きしながら、頭にそんな至言(ぽい言葉)が浮かんだ。

こだわらなきゃこだわらずで、ものが何パターンかあればやり繰りして調理から盛り付けまで出来る。

「でもそれを言ったら元も子もないじゃない、ねぇ。」
言いわけをするような、母の声が聞こえた気がした。

はい、全く同意です。

2019年4月27日土曜日

まなざしから落ちた、ひかり こぼれ落ちる、言葉


11年前、私は体調を崩したため休学して、でも東京から離れたくなかったから、結局学生寮と地元を行ったり来たりしていた。かと言って、復学後を見据えた準備をしていたわけではなく、ただただふらふらしていた。風来坊を気取っていたのかというほど、気分の赴くままに渋谷へ行き、私鉄に乗り換えて多摩川方面へ向かった。
いつも、フィルムカメラを持ち歩いていた。 minolta SR-T101という祖父が使っていた大衆機。 かのユージン・スミスは日本滞在中にライカのカメラが盗難にあい、このminolta SR-T101を代用したという。

    

足が気怠くなった頃に家に帰ると、自分と同世代のひとが撮る写真も、ブログやflickr、カメピというSNSで眺めていた。さらさらと流し見することが多かった。

ある日流し見できないブログに出会った。
 植本 from アルテミスイチコ 
愛おしさなのか、もどかしさなのか、被写体と作家の間の少し熱めの温度感が伝わってくるような。とても不思議な感覚だった。
写真から若者の言葉が聞こえているような気がした。でも背景の雑踏の音は消えている。
そう、言葉。音。
気づいたら私は彼女のブログを毎日チェックするようになっていた。

それが10年ほど前の話。

数年前にこの写真家、植本一子さんが本を上梓したことを知った。その本は私に大きなかたまりをぶつけた。

どきどきした。
彼女の書く言葉。
ああ、この言葉たちがあの写真たちの背景にあるのか。人とあたためあった温度感をそのまま写真に残したんだと。
写真に言葉が重なり合い、自分のなかで納得した、腑に落ちたような気持ちになった。

彼女の写真と言葉が交わりあったという自分の経験は、ひとつの邂逅かもしれない。

今はもうない、白いパソコンのディスプレイをじっと睨んだ10年前の自分。
くすぶっていたあの頃の自分に、「いい出逢いがあったんだよ」と言ってあげたい。
そう思うと、今の自分も報われる。

2019年4月26日金曜日

忘れたくないこととして

2019.4.26
絶対的もしくは相対的に判断するのではなく
これをして良かった、これを選んで良かった、ここにいて良かった
と自分の辿った筋道に価値を見出せる。
これはこの上なくしあわせなことではないか?


2019.4.27
4月も終わりというのに雪。寒の戻りどころじゃない寒さ。
世話をしていた金魚が死んでしまった。小さな花といっしょに埋めてあげた。
さようなら。ありがとうね。
君が今いる土は、もしかしたら、水槽の水よりあたたかいのかもしれないよ。


2019.5.3
自己正当化という反論の仕方
絶対的な自分=他を否定する自分

他罰的とはこのこと。




2019.5.12


母の日だから「カーネーション買ってくる?」と聞いたものの、やはり「要らない」と言われた。

スーパーでカーネーション横目に見ながら、果物売り場でイチゴとアメリカンチェリーを買った。

小学生の頃、運動会のお弁当には必ずイチゴとアメリカンチェリーが入ってたよね、とそんな会話をしたかったから。



2019.8.12


意識 運動 反射 衝動 感情 記憶 思考
ひとが恢復するシークエンスを思う。





2019.9.24
言葉をしたため、音を奏で。

そうだな。次は。

色を重ねよう。
絵を描こう。


2019.10.10

秘湯in
湯の花を流さずout
して

ご満悦。
コインロッカーの鍵が錆びてしまって、
ちょっと焦った。

2019年4月18日木曜日

暮らしの仕方

安価なもの、扱い易いもの、
壊れたとき、捨てても惜しくないもの。

そういうものを選ぶのは、もちろん暮らしの仕方のひとつ。

歳を取って余裕が出て、「そうではないもの」を集めるようになった。



考えてみる。

自分が暮らしのなかで重きを置くものって、何か。

外に出かけなくても、楽しめる、居心地のいい環境、空間。

調える、設える生活の道具。



家を「私」の趣味や意識で作ること。

傷やひびが入っても、繕い直したい暮らしをここで作ろうと思う。

2019年4月16日火曜日

春の花ばな


2年前のことを思い出す。

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春の花ばなを探しに、どこまで行こうか。

パソコンのキーボードを叩いて、見つけたいくつかの場所をリストアップしていく。エリアを決めれば、ルートも組みやすい。

比立内の水芭蕉群生地。ブログの写真に載っていた看板はもうなかった。でもこの坂道の表情はなんら変わらない。そう、この坂道。これを下って、つきあたりを右に。
どきどきしながら、車を空き地に停めようとしたら、先客の県外ナンバーの車。
昨晩の雨で少し足もとがぬかるんでいる。ハイカットのマウンテンブーツを車に積んでおいて正解。
靴を履き替えて、群生地の方へ。



ようやく先客とすれ違った。
「こんにちはー」
その後、地元のご婦人とすれ違った。夢中でシャッターを切る私を珍しく思ったのか(不審に思ったのか)、声をかけられた。
「いっぱい撮っでらな。花が好きなんだか?」
はい、今日は休みなので、この辺りの花が綺麗なスポットを巡っているんです。
「この後、どこに行ぐの?」
あわててわたしは頭の中の地図をがさがさする。出てこい、地名!
越山。
「越山か、あそこはじいちゃんがよく山菜を取りに行っでたね。『敷かさってる』場所があるって言うの。『敷かさってる』って分かるが?」
なんとなく、とわたしは応える。
「行くまで気をつけてね。ダンプに轢かれねようにな〜。」

越山の福寿草自生地に辿り着くのは、比立内の水芭蕉群生地に行くよりも簡単だったかもしれない。目印の商店に着くと、「こっちこっち!」と来る人を招き入れるような看板が立っている。矢印に促され、少し丘に登る。気づくと、庭先にも福寿草がある。
黄色い宝石。ダイヤモンドの「ブリリアントカット」みたいに、規則的な花弁の開き方が煌きを増しているように見えた。



どきどきした。
入り込んじゃいけない場所にいるような気がした。写真を撮ったら、早くこの場を去らなきゃいけないような…でも花は見たいし、前に進みたい。
大げさに聞こえるかもしれないけれど、その時の私は本当に興奮していた。間近で見る福寿草が放つ黄色の光はそれだけ神々しく見えたんだから。


呼吸を整えて丘を降りる。
…と、ふもとの人家には、庭先にも福寿草が自生していた。
少し拍子抜けした。

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鮮やかな黄色の余韻にひたりつつ、ぼうっと自宅の庭先に目を遣ったあの日のことをもう少し思い出してみる。
もうひとつの花。

たわわに溢れる馬酔木。

そろそろ今年も、春の花ばなを探しに行こうか。


2019年4月11日木曜日

春の野生

久しぶりに花を買った。



勤め先に飾るものをと考えていたので、春だし桜や桃、梅あたりかなと花屋でうろうろと物色していた。その途中で、気づいた。花の中でも、そういう枝ものは旬の時期こそ花屋に置いていないのかもしれない。
というか、店内見かけない。あるのは温室で育てたであろうバラやカーネーション。むしろここには温室で育てたものしか並んでいないのかな。

温室育ちだとしても、少し前までは枝ぶりの良い啓翁桜が、店の目立つ場所にどぅんっと置かれていたのに。

勤め先の大きな花器に飾るには、枝ものがよかったんだけれど。
そううじうじしていても仕方がないので、店内を再びうろうろし始めた。



悩みながらも直感に頼り、結局その日は3種類の草花を買った。


まず目に留まったのはワックスフラワー。
松のような葉枝と梅のような花。あれ、葉枝はクリスマスのモミの木のようでもある。
和洋折衷なワックスフラワー。つやつやの葉が放つ妙な魅力に惹きつけられてしまった。

花は数年前に櫃取湿原で見た梅花藻を思い出させた。ぴょんぴょん石渡りした、あの川で見た水中花。

「ここを桃源郷と呼ぶ人もいる」
あの時一緒に桃源郷に行った人の声が聞こえたような気がしたし、やわらかく湿った山道の香りが一瞬したような気もする。




この日買ったのはワックスフラワー以外に、ミモザ、ラグラス。ミモザは思いのほか葉が鋭くて細長く、黄色の小花よりも強い印象。どれも野生味があって、温室育ちには見えないところが気に入った。

自宅にもワックスフラワーを。ラグラスと一緒に持ち帰った。


2019年4月2日火曜日

令和 を読む

天平二年の正月の十三日に、師老の宅に萃まりて、宴会を申ぶ。時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す。しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封ぢらえて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁り。
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あたらしい春、あたらしい日。あたらしい命を迎え入れる。すぅっと吸い込むと胸がじんわりと暖かくなるような、さわやかな風が私のほおを撫ぜる。つい先日ほころんだ梅花はまるで白粉のよう。鏡の前で母が叩いた、あの白粉。蘭の香りは彼女が持っていた香袋を思い出させる。ああ、明けの明星が輝く頃には、雲の流れ道が見える。宵の明星が輝く頃にはむせるような霧。松を湿り気のなかに封じ込める。霧の帳の向こう、鳥達の翼が交わり、離れる。その繰り返し。家の庭に出ると、あたらしい命が行き交うのが見える。この蝶は羽化したばかり。あの雁は秋冬を告げた雁だろう。

あたらしい命が吹き込まれる。
命が孕む調べはどんなもの?

2019年4月1日月曜日

ここで、を選んだ理由


ここで迎えた、はじめての春
桜の名所を先輩に教えてもらった。
晴れの日はいつかな
待ちに待ったその日は
結局曇りだった

花曇り、花冷え、
頭の中をそんな言葉がよぎる。
「じゃあ」と燗をつけてもらう
車で帰る人にはホットコーヒー
お堀には花筏ができるんだって
山菜の天ぷらを頬張りながら、うなずく。

この春にはじめて出来た後輩を
いつものカフェに誘う。
いつかこのまちで、ブックカフェをやりたいんです!
目をきらきらさせる笑顔の彼女はとてもかわいい。

カフェのお姉さんに聞いてみた。
どうして、ここで、このまちで?
「ここで」を選んだ理由を
聞いてみたかった。


2019年3月4日月曜日

ミラクル・キャット・ストーリー

大館での出会いを想う。
人づきあいがあまりよくない自分はかつて、「もっと外に出て、友だち作りなよ!」と上司に言われた。自分の情けなさを突っついた言葉は、ひりひりと響いた。今も思い出すと、胸がずきんと痛む。

「どうせ私は…」ふてくされ気味の頃、大館で知り合ったある女性Mさんとの1ヶ月間はとてもわくわくする日々だった。だいぶ端折ると、猫の里親探しに奔走した。その女性が猫のもらい手を探しており、「嫁ぎ先が決まって、幸せになってほしい」という思いに打たれ、Facebookで知人に里親希望の方を募った。
結果、一度しか会ったことのない高校の後輩が手を挙げてくれた。ミラクル。彼女は岩手から猫を迎えに来てくれた。

仔ニャンの頃
現在の姿。ふくふく!

不貞ていた自分を動かしたものって何だろうな。
Mさんの気持ちに心動かされたこと。それ以前に、出逢えたことが嬉しかった。まさか地元から後輩が自分を頼って来てくれるということも。

すべて、当時の自分にとってはミラクルだった。


デカい。

先日Mさんのご自宅にお招きいただいた。
再会はこの日が初めてではなく、夏にも私が働く店に来てくれた。少し興奮ぎみに大きくなった猫の写真を見せてくれた。Mさんも旦那さんも、写真のなかでとてもいい笑顔をしていた。私にわざわざ会いに来てくれたこと、くらしに笑顔があること、じんわり涙が出そうになるのを抑える(仕事中なので)。

大館に来るときに志した仕事と、今は違う道を歩んでいる。たまに思い返すこともあるけれど、前みたいに後ろ向きな気持ちはない。そのゆえんはミラクルなキャットストーリー。

  イクシッ…!


2019年2月5日火曜日

最強感

2日間の休みを利用しての帰省。
いつもの高速バス。全席でWi-Fiやコンセントが使用できるようになっていた。

初めて大館に来た時もバスだったなと思う。電車で帰ったのは一回しかない。
悔しくて泣くのをこらえたり、どきどきを抑えられずにやにやしたり、いろんな感情をバスの座席に押し込めた。

バスに乗るときはいつもiPodで音楽を聴いている。
公共の空間で感情を押し込めるに、iPodは有効。


感情を高める時にも。

東京に住んでいた時、繁華街を歩くのが怖かった。キャバクラや風俗のバイト勧誘の勢いに負け、その仕事に興味はないのに数十分話を聞いてしまうことが多々。

自己嫌悪

自己に負けないために、イヤフォンをして音楽を聴いて街を歩くようになった。苦手な満員電車も乗れる。
音に没入すれば勝てるんだ、ってへんな最強感が生まれる。


バスの中で食べるソフトクリーム、
もちろんイヤフォンが耳にささっている。

2019年1月15日火曜日

そういうことなんだよな

梅干しの存在感たるや!な曲げわっぱ弁当。



高校生の時から食べ続けている、月向農園の梅干し。とてもおいしい。大きい実を少し齧るだけで、旨味が溢れ出してくる。梅は無添加だし、調味料も天然由来。歳を取って健康を考えるようになり、お弁当を作る時もスーパーの梅干しではなく、なるべくこの梅干しを使う。

この梅干しは実家から母親が持たせてくれた。食べきれるかなーと思いつつ、こうやってお弁当に入れたり、果肉を料理に使ったり。
最近母親に教えてもらったのは、梅干しと一緒にご飯を炊くレシピ。なんとも贅沢なご飯。
甘味と酸味が口の中でじんわり広がる梅ご飯、食べているとなんだか涙が出そうになる。

思えば自分は高校生の時、買い弁したことが一度もなかった。玄米ご飯に月向農園の梅干しのお弁当。高校3年生の自分は、もっと出張販売のパンや、揚げ物のおかずが食べたかったという記憶もあるけれど。あのときの2倍近くの年齢になって、あのお弁当の味や色、香りがずっと自分のなかで、大切に残っていたことを知る。

お弁当の中に入れているおかずが、母親の作っていたメニューと被っていることがある。それに気づいた瞬間、「そういうことなんだよな」と口にしそうになる。

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Instagramアカウント @watashi_kokode に投稿した内容を一部加筆修正しました。

2022年1月17日 水彩の計算

去年の春から月1〜2回ペースで、絵画教室に通っている。最初は鉛筆デッサンで、慣れてきたら水彩に挑戦する日もしばしば。 水彩は高校生の頃に数回しかやったことがなく、この年になって本格的に挑戦している。油彩の方が描いている数は多いので、感覚が掴めなくて、最初の数回は苦しかった。高校の...